『人のため、というブレーキは、どこから生まれるのか?』

相手が必要と気づかないものを手にしている。
それが必要と気づいても、その周りにまた気づかない壁がある。
ーーー
その壁は、時に「愛」という名前で見えなくなる。守ろうとする気持ちが、
前に進む力を曇らせてしまうこともある。
手を伸ばせば届くのに、いやもう手にしているのに、
それを自分のためにするまでに、なぜか他者の壁がある。
ーーー
その「なぜか」は、誰にも責められない曖昧な距離。誰かを思う
優しさと、自分を守る静かな線引きが交差している。
人のために。
誰かのために。
このフレーズ、本当にそう思って使ってる?
その人が必要だって気づいてる。
そしてそれはその人のためになる。
それはその人がそう判断したから。
なのに…
「人のため」と言いながら、
その一歩を“止めよう”とする動きが生まれることがある。
ーーー
愛が恐れにすり替わるとき、言葉はその色を変える。
「止めることが正しい」と思いたい気持ちが、自由の芽を
そっと摘んでしまう。
なぜ?
もしかしたらそこには、
「自分の立場が崩れるかもしれない」
「私に迷惑がかかるかもしれない」
そんな“無意識の恐れ”が潜んでいるのかもしれない。
ーーー
恐れは声を持たない。ただ静かにそこに在る。それでも、
その沈黙に耳を澄ませば、気づけることがある。
それでも、それを“あなたのため”と包んでしまうと、
見えないブレーキになる。
人のために役立つことをしたい?
だったら、なぜ自分じゃない人が進もうと一歩踏み出すことに、
ブレーキをかけるの?
矛盾してない?
ーーー
本当の優しさは、止めることじゃなくて、歩みを見守ること。
信じる強さが、その背中に光を落とす。
人のために、誰かのために、じゃなくて、
自分が納得するために止めているんじゃないの?
その2人の関係性がどうであれ、
このブレーキの正体は分かってる。
…その人にとって悪影響が出る可能性があると思うから。
「やめておいた方が良い」
という言葉の裏には、
「私に、私たちに迷惑がかかるから」が、そっと重なっている。
でもそれは本当に、人のため?
本当に迷惑になっている?
ーーー
自分を守ることと、誰かの選択を奪うことは、同じじゃない。
語弊があるかもしれない。
確かに、しなくて良い努力をする羽目になるかもしれない。
実際、そうなっているかもしれない。
だけど。
ブレーキをかけたら、
進めるものも進まなくなってしまう。
ーーー
止まる理由はたくさんある。でも、進む理由は一つでいい。
「必要だから」。それだけで、道は動き出す。
だったら、どうするか?
ある人が何か必要性に気づいて、それを手にして
進もうとするならば、
それがなぜ必要なのかを、まず知ろうとしてみる。
そして、それが自分には必要のないことだということも、
丁寧に伝える。
さらに。
それを進めることで、自分に降りかかるかもしれない不利益についても、
あらかじめ“話し合える関係”をつくっておけたなら——
そこには、
ブレーキではなく、“理解の道”がひらかれるのかもしれない。
ーーー
否定じゃなく、対話へ。遮るのではなく、差し出す。未来は、
共有できた瞬間に始まる。
「止める」のではなく、「問いかける」。
関係性を閉じるのではなく、向き合う。
誰かの歩みを支えるって、
そういうことかもしれない。
“優しさ”が、ほんとうにその人のためになっているかどうか。
答えは、いつだって「誰か」じゃなく、「あなた」にしか、わからない。
…次は、そんな“見えない答え”とどう向き合うか、
そっと話してみたいと思う。
- カテゴリー
- ひとりごとのように