笑顔が勇気を与え、生きる力こそ笑顔になる
そんな思いを【自分の手】で、一人でも多くの人に繋げていく
森岡 望
モリオカ ノゾム(最近ではモーリーと呼ばれてます( ◠‿◠ ))
これまでの人生を少し書いてみました(時間のあるとき読んでみてください)
自然に揉まれた幼少期
1970年姉妹に挟まれた長男として生まれる
父親の仕事の関係で三重県熊野で約4年間は海あり山あり川ありの自然の中で過ごす
運動好きはここで養われたかな
父親の愛情スパルタ教育で自然の雄大さとその脅威を身をもって学んだ幼少時代
今なら〇〇ハラスメントと言われそうなこともあったけど僕にとっては最高の思い出
例えば、遊泳禁止の浜に寝そべり、波にさらわれては浜に戻る
それで海の怖さを学び
川では、急流にのまれ溺れかけたこともあったりしながらも
岩場の歩き方や川の表情で危険な場所を学んだ
3歳の頃には近所のお兄ちゃんたちと山でつたを束ねてターザンごっこをしたり
ヒルに噛まれて出血したりととにかく野生児のごとく駆け回った
オイルショックで遅れていた横浜の家が完成して4歳を前に戻ってきた
幼稚園、小学校と進んでも得意科目は「体育のみ」
そのまま体育の教員を目指すと決めたのもごくごく自然のことだった
性格的には「ピンときたらドンといけ!」
良く言えば楽天主義、悪く言えば無計画無鉄砲な性格
そのおかげで進路も悩まなかったけれど…
海外への憧れ
体育学部を卒業、大学院ではスポーツ医学を学んで着々と
体育教員への道を進んでいたが、院2年生になる前に米国へ短期留学
英語が好きで高校生の時には交換留学を考えたこともある
とにかく海外に行ってみたかった
初の海外生活がUSA!全てにおいてカルチャーショック!の3ヶ月半
帰国後、教員採用試験を前にある思いが浮かんだ…
『これまでずっとスポーツしかやってきていない人間が先生になって良いのかな?
社会経験を積んで人間力を高めてからじゃないといけないじゃないのかな?』
青年海外協力隊(現JICA海外協力隊)に参加したのはそうした理由からだった
青年海外協力隊
バングラデシュ体操連盟に赴任し、体操の普及活動をしながら現地の人たちとの3年間は
間違いなく人生の転機となった
当時、大気汚染世界ワースト1とも言われた都市部では活動以前に
自分の健康を守ることすら危うい状況
実際、多くの同僚隊員たちは体調を崩していた
横断歩道も信号も関係ない、道を横断する時には走っている車の前に飛び出して
両手で車を制しながら渡ることも日常茶飯事
経験はしていないけどまるで戦後の闇市のような風景や
日本では考えられない低所得層の人たちの生活環境
最初は戸惑いながらも徐々にその人たちの魅力に心を奪われていった
事務局からは安全の為、決してスラムの様なところには
近づかないこと!というお達しが出ていたが
3年間の活動を支えてくれたのは他でもない彼らとの交流
現地の言葉の習得も生活の習慣も赴任当初からその人たちに教わった
「郷に入っては郷に従え」
最も仲良かった家族との経験が目指すべき道を変えるキッカケだった
金銭的にも栄養や衛生面でも日本では想像できないほどに厳しい生活
家族に赤ちゃんが生まれたのでお祝いにいったら、出産直後で
疲れていたお母さんはまた明日来てくれる?ということで
翌日訪れたときには、その子はすでに天国へ
それでも母親は僕を気遣って明るくふるまう母親に対して、えも言えず涙を堪えた
地方の村へ行った時にも、一人の母親が言っていた『10人産んで3人育てば良い方よ』
ずっと慕ってくれた男の子は小児ポリオで脚が不自由
体が不自由なはずでも心はとても豊かで優しい
いつもとびきりの笑顔で話しかけてくれた
褐色の肌なので夕方や夜には目と歯だけが突然現れる
正直、ビビって奇声をあげそうになることも、それを彼は面白がって
よくふざけていた
日本では信じられないことがあまりにも多すぎた
そんな環境に置かれているにもかかわらず何よりも光るものをみんながもっていた
それは眩いばかりの笑顔
日本の感覚だと将来なんか考えられない状況なのに一人一人が夢をもっていた
「将来、日本で働いて家族を支えるんだ!」
僕の目に映る生活環境は「辛い」をはるかに超えている
それなのにみんなが笑顔で生活している
『なんで?どうしてこんな笑顔になれるの?・・・』
そのとき
バシーン!っと体を電流が走った
【人を笑顔にしたい、この手で!】
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活動延長で一時帰国をした際に、日本では月曜日の朝だった
久しぶりに降り立った都心の主要駅
誰もが鉄仮面をかぶり無表情で足早に急ぐ姿に
恐怖を覚えた
何これ!
思わず壁際によって人の流れが収まるのを待ってしまった
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そんな経験もしていたので、ふとその時のことを思い出し
あの人たちにも素敵な笑顔があるはず…
体育教員への道を突っ走ってきた10数年
その時にはもう頭の中には日本の人たちを自分の手で笑顔にしたい!
どうやったら自分の手であの人たちを笑顔にできるだろう?
という思いしかなかった
それから半年ほどして2度目のバシーン!の瞬間があった
任国外研修でタイに訪れたとき、数日間関連施設を歩き回って流石に疲労困憊
ふと目に入ったタイマッサージの看板
「マッサージでも受けていこうかな」と立ち寄った
タイのおばちゃまなかなか上手い・・・
バシーン!
マッサージっ!!
これだ!
マッサージなら人を笑顔にできる!と同時に、ある思いが浮かんだ
怪我が多く事あるごとに涙を流していた自分の競技人生が
思い出され、アスリートの人たちが涙を流さないようにできるものを手にしたい!
1999年当時、まだインターネットの環境は粗悪
それでも何とかスポーツ医学、マッサージのキーワードを元に検索
自分のモットーに「分母は1」というのがある
他の人と同じことはやりたくない、やるなら誰もやっていないことをやる!
そのため、ハナから日本で学ぶという選択肢はなく、海外しかなかった
そこで自然療法では世界トップと言われるオーストラリア留学を決意
オーストラリア留学
3年間の協力隊任期を終えて帰国
両親と久しぶりに再会、普通なら将来のこともゆっくり考えるのだろうけど
2週間後にはメルボルン(オーストラリア)に居た
「ただいま~!」「おかえり〜!」と感動の再会、親は当然少しはゆっくりすると
思っていたから留学話でビックリした表情に思わず苦笑い・・・無理もない
自然療法(自然医学)ではオーストラリアで最も歴史の古い大学※へ入学
入学を決める前の校長との面接で
英語の理解が乏しく最初はフィットネスセラピーというコースを選択することに
しかし、オリエンテーションが始まり望んでいた内容とは違うことに気付いた
慌てて校長に直談判を決行!
スポーツ医学とマッサージを学びたいんだと話すと
リメディアルセラピーのコースがあると言われた
コース変更を申し出るも却下され「なんとかしてっ!」とダダをこねる笑
すると海外留学生は必要単位を取ればダブルディプロマ(資格を二つ)を
発行してくれるというのでコースを2つ同時に取ることにした
ダブルディプロマは壮絶だった
講義は一コマ3時間!(日本では90分だったのにぃ)
2年半の間、1週間の中で4コマが4日、3コマが2日だったかな
それも当然、全て英語です
日本語でも専門用語は普通じゃ分からないですよね?
最初の3ヶ月は毎日帰宅後には冗談抜きで脳が沸騰、湯気が出ていた
完全なるキャパオーバー
クラスメイトには「なぜそんなに授業があるの?」と驚かれたくらい
彼らは1日1~2コマ
「なんとかなる」という気持ちでスタートしたのが失敗?
いえ、そこは楽天家&負けず嫌いの性格が功を奏してか
3ヶ月ほどしてそれが普通に感じられる様になっていた
2年時には夏も冬も長期休暇中、取れる講義を全部を申し込んでいたくらい
そんな折、プライベートでは「最初の」結婚を迎えていた…
※Australian College of Natural Medicine(現Australian College of Natural Health)
帰国、そして
メルボルンでビジネスビザの取得も内定し夢だった海外生活が本格的に
スタートを迎えるかという状況だったけれど
卒業後に日本に帰国することになった
帰国した翌年、長女が生まれ、3年後には次女も加わった
しかしながら、結婚当初から夫婦間のコミュニケーションがうまくいかないことがあり
平均睡眠時間は2時間ほどの日々が続き、次第にお互い精神的に追い詰められていく
子どもの為には両親が絶対必要!と頑張ってきたが
自分を見失い自信も失い精神的にも限界に来ていた
そして、別居することに
一番辛かったのは娘たちと全く会えないことだった
喪失感が尋常ではなく
毎晩子どもを思いお酒を飲んで紛らわそうとしたが
涙に明け暮れた
別居から1年後、離婚が成立
娘たちに会えると思っていたがその機会は与えられなかった
家族を失い、子を失い、自分を見失い、全てを失った…
人に会うのが怖い、人と話すのも怖い
自分の信念すら霞んでいた…
再出発
生きているのも辛い、そんな弱音すら吐きたくなった
そんな自分を救ってくれた出会いが訪れる
閉ざされていた心に差し込む一筋の光
「人を信じる心」と「真実の愛」を教えてくれた
次第に閉じていた凍っていた心が開いていく
信じることとはこういうことなんだということに初めて気付く
そして、自分は自分で良い!ということも
それまでは「信じる」「信頼」という言葉を使っていても本当の意味では
人を信じることができなかったと気付いた
自分のことも信じていなかったかも
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離婚に関しても、当時は相手のせいだと思うところが多かった
今にして思えば、自分が反省する点は多々ある
ただその時は一生懸命でそう思える余裕すらない…
信じるということができていなかったのは事実かも知れない
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失ったと思っていた笑顔を取り戻していく自分がいた
しばらくして久しぶりに実家に行くと…普段寡黙な父親が口を開いた
「望の笑顔を見たのは何年振りだろうね」
その言葉が全てを物語っていた
自分を見失っていた時間が終わり、閉じ込めていた自分らしさの扉が開いた
優しい笑顔を見せてくれた両親をみて、自分はずっと見守られていたと
いうことにも気付いた
感謝の思いと苦しかった時間からの解放でこぼれる涙が止まらない
母親も顔を上げられない…心配かけてたんだなぁ
信じること、感謝すること、そして愛すること
それを改めて感じ、自分が気付いた時「笑顔」になっていた
その笑顔は表情ではなく心にも咲いた
別れた元奥さんに対する感情も変化があった
自分も辛かったがきっと彼女も辛かったはず
いや、僕以上に辛かっただろう
「感謝」の思いが心に自然と湧いた、「ありがとう」の言葉が口を突いて出た
(僕の方が悪かっただろうなと今では思う…)
そして笑顔を取り戻すきっかけを与えてくれた
女性と再び人生を共に歩み始めた
再出発
試練
数年後の2011年、二人で路面店を出すことになった
ちょうど東日本大震災の影響で木材を中心に資材が足りなかったため
工事が捗らない、予定の2ヶ月遅れでやっと開店を迎えた
開店して2〜3ヶ月はなかなかお客様も増えないだろうとその分の運転資金は確保していた
しかし、工事の遅れでも家賃など経費は発生していたためその資金で支払うことに
さらに初めの1ヶ月は全く予約が入らない
ついに資金が底をついた
それでも月末には固定費の支払いがやってくる
お金が無い!
通帳記入、残高は37円!
手持ちの現金も少なく、買い物でそれから2カ月近く
100円未満のものしか買えない
それでも身内から野菜やお肉、お米が届いたおかげで助けられた
なんとか生きていけた
「有り難いね。ありがとうご飯だね。」
毎日感謝しながら、涙が頬を伝いちょっぴり塩味が加わる食事
あれだけ苦しんだ状態から再出発してとても良い流れだったのに
ここにきて大きな試練
思い立ったら即行動で路面店が出せたけど?
他の人に言わせれば無計画!?やっぱり駄目だったのかな
あれこれ手を尽くしてみるけど一向に予約は入らない
飛び込みのお客様すら来ない
かかってくる電話はダイレクトコールだけ
来客!?と思えば保険の営業の人
どうしたら良いの?もう直ぐ月末になる…
と言うより現実的にお金が無い!支払いできない!
もう最後の手段は敷金を使って経費を払いサロンを辞めるしかない!
せっかく作ったお店だけどいま辞めれば支払いできるだろう
そんなことまで考えていた
そして、
やっぱりお店を畳まなきゃだめだ、もう他に方法が無い
それを断腸の想いでオーナーさんに店をやめると伝えに行く
するとオーナーさんは厳しくも優しい眼差しで言葉を発した
「森岡さん、私もビジネスをしている一人としてお聞きします。」
「全部やりきりましたか?やりのこしたことは無いですか?」
「あれだけ頑張ってつくって来たのを本当にやめて良いんですか?」
やりきった?全部?やってない!
やろう、やり切ろう!
ここで終われない!
オーナーさんの言葉に救われた
早速その日からあの手この手で策を練り行動した
絶対なんとかする!そう思っていたが現実はそんなに甘くない
数週間経っても事態は好転しない内に、また月末が迫ってくる
やっぱり無理かも…
あと何をしたら良いんだろう…もう、辞めよう…
いや、まだ何かできるはず…葛藤の日々
即収入が得られるのを見込んで風俗業の面接にも行った
ただ、そこでも担当者の言葉に救われた…
「森岡さん、ここはね森岡さんのような方が来る
ところではないですよ。お帰り下さい。」
眼鏡越しに優しく綺麗な目が見えた気がした
ここにも背中を押してくれる人が居た!
ふと、夫婦でお店を出している友人が言ってたことを思い出す
「私たちも最初の頃、お金が無くて苦労したよ、でもね自分たちが
落ち込んでても良く無いから、そこだけは気をつけてたよ!
あとね、お金が無い時は、お金を使っちゃうんだよ!
そうしたらきっと回って戻ってくるから!」
そうだ、自分たちが沈んでいたらダメだ!
そこで取った手段は
大好きなディズニーへ行っちゃおう作戦!
(でも、お金が無い!いや、クレジットカードがある!苦笑)
夢の国で思い切り楽しんで過ごした一日
笑顔の中で互いの気持ちや思いを語り合った
この先どうする?辞めたくない!よね?
絶対に大丈夫!だよね?やりきろう!できるかな?
いや、やる!大丈夫、できる!
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そして、その翌日
流れが変わるとはこういうことを言うのだろうか…
電話が鳴った!
そう言えば電話も設置してたっけ、存在すら忘れていた
「この後、空いてますか?」
耳を疑った!?
えっ予約!?
初めてのお客様来店!
流れが変わった!
いままでなんで来てくれなかったの?と言わんばかりに
その方を機にまた一人、また一人とお客様が来てくれる様になっていった
そして、1ヶ月が過ぎた頃、買い物へ行った
納豆を手にレジへ向かう
「103円です。」(うわぁ!)
思わず叫びそうになり急いで帰宅
「聞いて、聞いて~103円!!」「3桁!!」
「ほんとに~?!すごいじゃん!!」
感謝の証としてそのレシートをしばらく神棚に置いていた
その年の大晦日
「年を越せるね、ね。新年迎えられるよね。本当に感謝だね!」
【乗り越えた!】
二人の笑顔は間違いなく今まででで最高の笑顔だった
そして様々な思いが交錯し涙となって溢れて来た
生きていればこそ、嬉しいこと楽しいことだけじゃなく
辛いことや苦しいこともある
それでも一生懸命頑張れば笑顔になれる時が来る!
笑顔は勇気を与え、生きる力こそ笑顔になる
試練を乗り越えたあと
【自分の手で一人でも多くの人を笑顔に】という思いは一層強くなっていった
その中には過去の自分もいて、あの時の涙を救ってあげたい
そんな思いも湧いてきていたけれど、もう過去の自分に涙は無かった
笑顔を忘れてしまった人にも
しばらく笑っていない人も、笑顔の素敵な魅力を再確認してもらうために
笑顔の花を咲かせるために頑張ろう!
どんな人にも笑顔がある
その笑顔にはその人の人柄が一番に現れる
だから、魅力的な笑顔になる
自分がぶすっとしていたらきっと誰も
笑顔にならない
笑顔にできない
体が良くなると自然と笑顔になる
ケアをすると笑顔が出てくる
そうすると心も笑顔になる
色々考えるけど基本的にはなんでも楽しい
小さい頃からお前は普通じゃない奴だって言われてきたけど
他と違って当たり前
だけど、自らの手で人を笑顔にしたいという思いは絶対曲げず
自分と関わる人が笑顔になってくれたら
それだけでやっぱり嬉しいしやりがいがある
自分が自分でいればいい
変な奴って言われたら、それは一番の褒め言葉
自分らしく笑顔で生きていく
それが一番大事なこと
そうすれば、自分の手で人を笑顔にできると分かったから
今日も笑顔を咲かせに行こう
これが森岡という人物
長文、最後まで読んでいただきありがとうございました
次はあなたの笑顔も見に行きますね